市川の国府台を散歩してみたpart3|千葉の散歩
part2の続きになります。前回記事を作成してから間が空いてしまいました。今回で国府台散歩シリーズは終わります。part1では国府台という場所について紹介を行い、part2では駅から国府台公園~里見公園前までの散歩について写真を交えて記録しました。今回は、里見公園内を散歩した記録と、公園~駅までの散歩記録となります。
ということで早速スタート。
国府台城跡についての案内板の前を通り過ぎまっすぐ進むとこんな建物が。
これは紫烟草舎といい、明治時代に活躍した詩人北原白秋が利用した離れを復元した建物です。もとは小岩にあったらしいです。
石碑にズーム。
華やかに さびしき秋や 千町田 ほなみがすゑを 群雀立つ
という白秋の句が刻まれています。
紫烟草舎を右目に、次に羅漢の井に向かいます。羅漢の井は、かつて飲料水として使われていたようです。今は飲めませんが。
これが羅漢の井周辺を描いた絵になります。これを見ると当時は今よりももっと水量が多かったことがうかがえます。
お次は里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑と、夜泣き石です。すこしぶれてますが。
案内板に書いてある内容をもとに紹介すると、1564年1月4日に安房国の大名、里見義弘率いる軍勢8千の里見軍が国府台に陣を構え、北条氏康率いる軍勢2万の北条軍を待ち構えていたところ、1月8日の払暁(夜明け)に急襲にあい、里見軍は5千の戦死者を出したそうです。いわゆる第二次国府台合戦です。なお、この戦いの前に、北条軍側の人間が恐らく勝手に攻め込み戦死しています。これに気をよくして里見氏は酒をふるまったようで、その夜のことだったそうです。
この戦いの中で里見広次が亡くなっており、12~3歳の広次の娘が弔いのためこの場所にやってきたものの、戦場跡の凄惨さに恐怖と悲しみを感じ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、息絶えたと言われています。また、そのあとも不思議なことに泣き声がきこえるということで夜泣き石伝説として語りつがれているようです。ただし、案内板にもありますが、史実と照合するとどうやらこの話は創作の可能性が高いようです。
さて次が里見公園内最後に紹介するものになります。明戸古墳石棺です。この古墳は発掘された埴輪から6世紀後半に作られた前方後円墳とされています。
他にも探すといろいろ遺構があるらしいですね。今度時間があるときにもう一度訪れようと思います。その際は里見公園だけではなく、真間や国分などこの一帯を回りたいですねー。松戸街道を歩いているときに通りすがりの高校生らしき少年がレンタルされた自転車に乗っていたので、市川駅あたりでレンタルサービスをやっているのかもしれません。一帯を回るのであれば自転車を使うのもいいかもしれません。
帰りは里見公園の羅漢の井から出て江戸川沿いに歩いて帰りました。最後にその帰り道に撮った写真を載せます。左にうっすら見えるのが東京スカイツリーになります。