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市川の国府台を散歩してみたpart1|千葉の散歩

今回は千葉県市川市にある国府台という場所を散歩してみました。ちなみに国府台と書いてこうのだい、と読みます。まず簡単に国府台を散歩する場所に選んだ理由についてご説明。理由は二つあります。一つは、歴史に触れることのできる場所に本格的にはまりつつあるから。もう一つは、行ける範囲で考え探していたら国府台がかつて下総の中心地として栄えていたことを知ったからです。以上の理由で選んだ国府台散歩の記事になるので、歴史を感じることのできる場所が好きな人にお勧めの記事になるかと思います。なお、このpart1の記事では散歩そのものの内容はありません。国府台という場所の説明になっています。散歩の内容、写真はpart2で。

 

■国府台の紹介

まず国府台について紹介してゆきます。ざっくりとした時代区分に分けて説明します。ただしふわっと調べた薄っぺらい内容です。

・古代

国府台周辺は旧石器時代の遺跡が存在していたことからもわかるように、非常に古い時代から人が住んでいたようです。弥生時代には大きな環濠集落もあったとか。国府台の近くには江戸川が流れていますが、やはり川の近くは発展しやすいのでしょうか。(古代四大文明が例。)古墳時代にもいくつもの古墳が造られていたようです。今回散歩した中でも、そのうちのひとつである明戸古墳を見ることができました。

その後飛鳥時代後期に日本が外交的危機(白村江の戦いなど)に瀕したことによって国政改革が進み、天皇を頂に据えた中央集権制が進められる中(ただし外交的危機に瀕する前から中央集権制が進んでいたように思われる。理由は公地公民制という発想と土着豪族出身蘇我氏の存在。豪族蘇我氏の存在に対するものとして、飛鳥中期~平安初期にかけて天皇を中心とする中央集権化が進んだように思える)、その土地の豪族ではなく中央から派遣された国司が治める国である令制国という地方行政区画が形成されたんですが、その令制国の一つとして下総国が、現在の千葉県北部、茨城県南西部、東京東部などにまたがり存在していました。ちなみになぜ中央から派遣された国司に政治を行わせたかというと、中央にひもづけされているため中央の意見が地方に反映されやすいからです。統率性の強化が目的ということになります。また、この方法は大名領である藩から権力を中央に集めることを狙った明治維新における廃藩置県においてもとられています。

さて、国府台はその下総国の国府(これはこくふ、と読む)がおかれた場所とされています。国府とは上述した国司が実際に執政する施設である国庁が置かれた都市のことを指します。この地が国府台というのはかつて国府であったからということに由来しています。これはこの場所に限らない話で、全国各地に国府という文字の入った地名があるようです。また、国府には国庁のほか、国分寺・国分尼寺・総社(惣社)が設置されています。そのため、国府台の周辺には実際に国分寺や国分尼寺、総社が存在します。そのうち国分尼寺と総社は跡地という形になっていますが。また、国府台の東には下総国分寺がおかれたことに由来した国分という街もあります。ちなみに下総があれば上総もあるわけですが、上総国における国府は現在の市原市とされています。しかし国庁の遺構が見つかっていないためあくまでも推測。ただし国分寺や国分尼寺は見つかっており、ここも同様に国分寺台という地名になっています。また、国分寺台には惣社という地名も残っています。

 

・中世

中世には国府台城が建築されています。中世~近代においては勢力争いの舞台となっていたようです。現在里見公園がある場所が国府台城のあった場所らしいです。

 

・現代にかけて

明治から昭和初期にかけては軍事拠点として使われ、戦後は宅地化、学園都市化が進んでいるようです。

 

と、ざっと国府台の歴史をなぞり紹介してきました。後半書きつかれてだいぶはしょっています。さて、以上を踏まえたうえで今回散歩したその内容を写真とともに書いていこうと思いますが、疲れたのでそれは次の記事で書きます。つづきはpart2へ!